まちづくり、コミュニティ、公共性 ― 手島サトコ「酸欠都市の泳ぎ方 #00」から考える

私は「まちづくり」という営みに関して少し距離を置いて見ている。その理由はシンプルで、新しい場に入っていくことが苦手だからだ。会社ですら自己紹介でたどたどしくなってしまう。何よりマイナー趣味の持ち主で、割と孤独を感じて生きているので、受け入れてもらえる気がしないというのもある。

一方で、私は「まちづくり」をしたい人の気持ちやそれがまちにいい影響があるのかどうかを観察はしている。いい例があるなら、紹介はしたいし、広がっていく中で自分がダイブできる場所ができるかもしれないと思うからだ。結局のところ、私は「コミュニティ」を求めているのかもしれないと寂しい気持ちになることもある。

なぜこんなことを書いているのか。それは、文学フリマで、手島サトコ(@satoko_teshi)さんの「酸欠都市の泳ぎ方 #00 『うまくやれない』人のためのまちづくり」を読んで刺激をうけたからだ。内容としては筆者が「まちづくり」に関わりながらも、感じる違和感について具体例を交えながら言語化しているもので、非常に興味深く読んだ。

 

 

特に印象的だったのは、パワハラ精神疾患の話や「成功者バイアス」が強いという話だ。このあたりは個人的な感覚と非常に近い。かねてから、「まちづくり」や「交通」を見てきた人間として、プレイヤーにインクルーシブではない人が多いと感じている。

本来、公共性が高いこうした分野はインクルーシブであるべきだと思う。もちろん、近年の不動産開発で使われる「まちづくり」においては、不動産価値の向上と維持を目的としているため、ある程度エクスクルーシブにならざるをえないと考えているが。

しかしながら、私が違和を覚えるのは、公共性を掲げ、「インクルーシブ」かつ「ボトムアップ」でまちづくりをしようとみせながら、まちづくりの主体のためのまちづくりになっている例が散見されることだ。それは不動産価値の向上のために行うまちづくりよりもタチが悪い。参加しなければまちづくりの対象から排除されてしまう可能性が高く、参加したとてイニシアチブを握るか勝ち馬に乗らなければ意見を主張しづらい。

よくワークショップで住民の意見を聞きました、というのを見て猛烈な違和感を覚えるのだが、ワークショップに参加できない人の意見はどこで聞くのだろうか。ワークショップでの取りこぼしはどこで拾うのか。いつも問いかけたくなる。そもそも、皆が「まちづくり」をしたいのか。そこからであろう。別に必要最低限のインフラ補修でいいという人がいるかもしれないし、変にヨソモノが来て眉をひそめるかもしれない。そういうことは無視して「コミュニティができてうれしいよね!」みたいな「錦の御旗」で「ボトムアップまちづくり」が進められがちな印象がある。それならば「まちづくり」でなくて別にお店でも開いてコミュニティを作ればいいのに、とすら思うこともある。

もちろん強烈な力でないとドラスティックな変革は難しいというのはわかる。中々人の意識を変えるのは大変だし、そういうことに喜びを見いだして動く人を尊敬していないわけではない。しかし、なぜだろう。どことなく私には「コミュニティ」とセットになった「まちづくり」には気持ち悪さを覚えるのだ。「コミュニティ」を見ていると、血縁主義社会や村社会、家父長制的社会を見ているような気持ちになるというのもあるだろう。つまり、インクルーシブではないということだ。公共性がないということだ。

こう思うようになったのには様々な過去の苦い思い出があるのだけど、先の書籍で記述されている「成功者がワナビーを呼びコミュニティを形成し、本とイベントでループしている感じ」に対する違和感も大きく寄与しているだろう。つい、まちづくりの「コミュニティ」って、成功者や言葉の強い人のためのものですよね、私はたぶんここからは排除されるのだろうな、とシニカルになってしまうのだ。

むしろ私はボトムアップ的なまちづくりの営みよりも、いっそウォーターフォールのように組織が「色」をつけ、利益を得るためにまちに介入しするほうが清々しいと感じる。反対する行為も理屈がつけやすい。結果的にその方が意見が言いやすく、よほど「公共的」になるのではないかとすら思う。

そもそも、(少なくとも)日本において「公共性」なんてものは、バッジみたいなもので、中身はあまり重視されていないように思う。封建的な文化が染みついてしまった社会なのだとも思っている。そして、ことある毎に「コミュニティ」でそういう封建的なものや成功者バイアスのようなものを見ては「やはり公共なんてないなぁ」と思わせられる。

しかし、それでもちゃんとした「まちづくり」があったらいいなとは思う。そして、それは意外と排除する対象を明確にした不動産開発の方が公共的になっている気がする。「まちづくり」や「コミュニティ」への違和感をうまく言葉にできていないことはわかるが、少なくとも、手島さんの本を読んで私は「違和感を覚えているのは自分だけではないのだ」と非常に勇気づけられた。そして、自分は想像以上に「公共」という言葉や運用について重視しているのだな、と改めて思わされると共に、もしかすると「公共」を求めて「まちがどうしてこうなった」のかを書き残し続けているのかもしれない。そう思った。

 

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