2025年1月の記録-少しずつ動き出した日々
記事があまり出せていない月でも、今年からまた、活動報告くらいは書いておこうと思った。ピクシブファンボックスに影響されたのもある。まぁ、いつまで続くかは分からないけれど……。
会社の休職とライティング活動の近況
年末の記事でちらと触れたが、昨年11月末から休職している。診断としては不安・うつ症状。要因はいろいろあるのだけれど、会社は辞めたわけではないので詳しくは書けない。結局のところ、持病が最終的に爆発したというのが一番正直な説明だろうか。来月からは別の部署で復帰予定で、今までと異なる仕事が始まるのに期待と不安が入り交じっている。
会社の休職を受け、ライターの仕事もスローダウンした。ただ、今年に入って復調してきたので1月下旬から執筆活動を再開している。今は北大東島の同人誌を作成中だけれど、歴史をまとめていたら1万5000字になってしまって、これからイラストレーターに流し込んだ時にどれだけのページ数になるかが怖い。一応、2月16日のコミティア151に出展予定のサークル「迷走優品」で頒布予定である。
昨年、ライティングの方向性が固まってきたことで、今年は遠慮なくライティングができそうだ。そして、取材のレポートも含め、風景や都市の記事をたくさん書いていきたいと考えている。
お酒の話
12月は休職し、疲れを自覚したこともあってか、お酒を飲みまくってしまった。正直、今月と来月のカード請求を見ていると、冷や汗が止まらない。残り11か月、家のみを中心にまったりとお酒と付き合っていくつもりだが、近くに魅力的な居酒屋も多いし、果たしてどうなることやら。
たくさんのお酒を飲む中で、よいお酒との出会いもあった。昨年末印象的だったのは北西酒造さんの「彩來」との出会いである。埼玉・上尾の酒造なのだが、埼玉県に「花陽浴」以外でこんなにいい味の日本酒があったのかと驚いた。早速今年に入ってさらに4本買ってしまった。

1月にもよい日本酒との出会いがあった。
「浅間嶽」は久々に飲んだのだが、以前のえぐみというか荒さが消えていて驚いた。居酒屋のマスターに話を聞くと、数年前に杜氏が変わったそうで、数年間口をつけなかったのを後悔した。今後はしっかり注目していきたい酒である。

昨年蔵開きした「甍」の「銀白」は衝撃だった。これは「甍」の中でも松川村限定で販売されているお酒だ。東京近辺でも「甍」の「銀藍」や「銀黒」は時折見かけ、「銀黒」はスマートにおいしく、優等生という感じがした。そして「銀藍」は銀黒にコクが足されて、少し玄人の味わいだ。この2つに対して「銀白」は柔らかく華やかで儚い味で個人的には別格のおいしさだった。

「帰山」も印象に残った。年始に「伍番純米生原酒」、月末に「純米大吟醸生原酒直汲」を居酒屋で飲んだ。どちらも甘さのある旨みとコクがあり、おいしい。そして「伍番純米生原酒」は濃さとコクの割に不思議とべたつかないキレも持ち合わせていて素晴らしかった。「純米大吟醸生原酒直汲」は純米大吟醸なので、味やコクは薄いのだろうかと思って口をつけたが、「お前は本当に純米大吟醸か」と思うほど、しっかり味が乗っていて、また綺麗だった。どちらもおすすめしたい。


温泉と年越しの話
お出かけもした。12月には秋田まで足を延ばし、2年くらい行きたいなと思っていた仙北市の強首温泉に入ってきた。なぜかこの日の前後は大雪。猛吹雪の中、少しずつ日が暮れていく。そんな中で一軒宿の強首温泉に着いた時は、安心感があった。

どうしてここに行ったのかというと、自分に合う温泉探しの一環だ。今のところ長野に私が最も好きな温泉施設があるのだけれど、そこは日帰りしか入れない。近くに似た泉質で宿泊施設もあるところも試したのだが、どうも合わなかった。
そんな中で、強首温泉は宿泊できるという点で候補の1つになった。結果として、やはり自分の一番好きな温泉の良さを再確認することになってしまったけれど、ここならではの魅力も見つかった。お風呂の雰囲気もよく、なにより建築物が素晴らしい。今度は泊まりで来たいのだけれど、一人では難しいので、恋人やパートナーができたらまた訪れたい。
年越しは地元のスーパーが年末年始で休業ということもあり、長野市で過ごした。初詣で戸隠神社に行くと、中国語圏の方の多さに驚いた。はじめは「インバウンド?」と思ったが、駐車場の様子を見ると日本各地のナンバーだった。おそらく日本在住の中国系の方々なのだろう。彼らは春節が帰省のメインであり、年末年始は時間があり、かつ雪景色に惹かれたのかもしれない。邪魔とまでは思わないが、どことなく落ち着かない感じがあり、今後はゆっくりとお参りすべく、初夏に来ようと思った。
スキーと音楽の話
年始すぐは両親と石打丸山スキー場も訪れた。ここを選んだ決め手は「サンライズエクスプレス」に乗りたいという理由である。クワッドリフトとゴンドラの混合という特徴的な設備で、リフトは座面が暖かく快適だった。


また、西側のザイラーコースとホピヒラーコースの滑り心地が気に入って、何本も滑ってしまった。その間に両親は私よりも早めに撤収した。やはり年齢の差を感じる。そんな中でも、彼らの楽しみであるスキーに連れて行く、旅行に連れていくのが今後の私にできる精一杯の親孝行と思っている。
親孝行は別にしてもスキーは楽しい。2月にも友人と日帰りスキーの予定が入っている。今度はアプリで計測して、自分のスキーの特徴も見てみたい。
1月の中頃には音楽ライブも観てきた。キャパシティ200人ほどの会場での生音は心地よく、普段もよく音楽を聞いているが、それとはまた違う元気ももらえたし、何より楽しかった。今年は好きな音楽のライブにもっと足を運びたいと思う。
というわけで、1月は少しずつ前を向いて動き出せた。来月も同人誌の話や趣味の話を含め、いろいろと書きたいと思う。
P.S.ちなみにお酒や音楽の話は実は主にTwitterの別アカウントでしているのだが、そちらについてはフォローはしてもそっとしておいてもらえると嬉しい
2024年、自己理解プログラムを経て - 風景への興味を軸にした新たな一歩
行き詰まりを感じていた日々
2024年もまもなく終わりを迎えようとしている。今年は去年ほどの活動はできず、遠出も実はいただいたお仕事に併せて出張することが多かった。
これには、個人の迷いが大きくあった(まぁずっと迷ってばかりの人生だが)。まち探訪家として活動し始めたのが2017年のこと。その後、ライターとして食っていく道を考えながらも、コロナ禍により方針転換。2021年からは会社員との二足の草鞋で数年間活動してきた。
正直、会社員との二足の草鞋になってからは、会社員という社会活動に意識をとられることも多く、自分の進むべき道について考えることを先送りにしてきた。そして、2020年のコロナ禍前から、交通系の記事を書いているときに、どこかしっくりこない感覚が常にあった。それは単なる違和感というより、自分自身への問いかけのようなものだった。
「本当にやりたいことって何だろう?」
この問いに、正面から向き合うことができなかったのは、おそらく答えが見つからないことへの不安があったからだろう。もちろん、アクションを何もしなかったわけではない。八木仁平さんの「世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方」を購入し、彼の公式LINE登録もしていた。だが、本を読んでワークをしようにも挫折し、結局具体的なアクションは起こせずにいたのである。
転職しかけて出てきた問い
しかし、今年は職場での仕事でも4年目で苦しい状況になってきた。自分の得意や強みを生かせているという実感が足りず、また、様々な仕事で発生するストレス*1があり、毎日が消耗戦のように感じられた。本当に今このままでよいのか、転職という選択肢も考えるようになっていた。転職サイトにも登録したし、実際1~2社の面接まで進んでいた。
しかし、面接を受けようとしていて改めて感じたのである。
「自分は何がしたいんだ?どうやって生きていたいんだ?」
私は仕事という行為が本来嫌いではない。誰かの役に立つことは自己肯定感や自己効力感を得られるし、ビジネスであっても、誰かとのつながりがあるということは孤独感を埋めてくれる*2。ただ、自分自身の軸がないままでは、結局与えてばかりで、モチベーションがなく消耗するのである。のちに自己理解プログラムで学ぶことになるが、人間そういう状態で頑張れるのは3年程度。実際、過去もそうやって3年位で挫折することもあった。
とにかく、「自分は何がしたいんだ?どうやって生きていたいんだ?」この問いに答えられなければ転職してもまた消耗するだけではないか。
そんな折に「世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方」を購入した時に登録した八木仁平さんの公式LINEからイベントの告知が来た。テーマは「転職」。まさにぴったりであった。話を聞いてみると、やはり「自分はどういう人間であり、何がしたいのか」という自己分析や自己理解ができていないと転職で苦労するし、転職後で苦労することになるということに改めて気づかされた。
ただ、正直ところでは個人的にはセミナーやそこで案内された無料カウンセリングを受けて、参考にし、自分でワークをやっていこうと思っていた。しかし、話を聞いてみて気づいたのは、ワークをやっても「回答はこれでいいのか」という迷いがどうしてもでることだった。回答の善し悪しをジャッジし、サポートしてくれる人が必要だったのだ。そこで案内された「自己理解プログラム」を受けてみることにした。
自己理解への投資
「自己理解プログラム」、案内を受けた当初は自己研鑽のプログラムなんて第三者で聞いたら正直うさんくさいもの、受けてもお金をドブに捨てるかなと思っていた。なにせ、この「自己理解プログラム」は100日で完了させるもので、30万円。金額は決して安くない。転職先を斡旋してくれるわけでもなければ、上手くいく確信が自分の中にはなかった*3。しかし、決断した理由は、まさにいま、自己理解が不十分で悩んでいること、そして以前「世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方」を読んで非常にロジカルだと思ったからだ。気合い、思い込みみたいなものは一切無い。それが最終的に各々の答えを見つけられる理由にもなっているようだった。そこは私が受講を判断するポイントとしては大きかった。
そうなれば、あとは「お金」だけが理由となる。個人の信条として「妨げる原因がお金だけならやるべき」というのがある。なぜなら、理屈や思いと違い、お金はただの手段である。手段であれば選択肢はいくらでもある。個人的にも工面できる見込みがないわけではなかった。
もちろん、お金の不安で躊躇する人は多いだろう。だが、私としては自己の理解に投資することは、長期的に見れば決して無駄にはならないと考えた。この気持ちも理由としては大きいし、実際やってみてよかったと思っている。
ただ、もう1点、プログラム参加に際して重要なことがあるので、そこは留保条件としておきたい。それは、自分のメンタル状態の見極めである。自己理解プログラムは必然的に自己の深掘りを伴い、自信のなさや将来への不安が露呈する可能性が高い。そのため、私は「受けた方がいいだろうな」という友人の一部が精神的に不安定がゆえに強く奨められない。一方、私の場合、むしろ自己分析で安定する傾向があり、不安定要因は別のところにあった。この自己認識があったからこそ、プログラムに踏み切れたということは付け加えておきたい。
プログラムでの学び
自己理解プログラムは「自己理解のライザップ」と自らを表しており、かなりの密度と強度で自己と向き合うことを求められる。動画を見ながらワークを進めていく形式で、価値観・得意なこと・好きなことの順に見つけていく。それぞれが重なるところに「本当にやりたいこと」があると位置づけられているのである。この過程はシステマティックに見えながらも、決して機械的なものではなく、自己との深い対話の連続であった。
そして、コーチ選びに成功したのが、プログラムを進める一助になった*4。コーチの選び方としては、オタク文化や文脈に理解があり、共感ベースで話ができそうな人を選んだ。これは体育会系の人やイケイケの人だと質問をためらいそうだったからであるし、対話ができるコーチでなければ私はしんどい思いをすると思ったからだ。結果的に、この選択は大正解だった。プログラムの中で何度も深い対話を重ね、時にはっきりとした指摘もありながら、常に建設的な方向へ導いてくれた。この100日間、私の混沌とした思考を整理し、本質的な方向性を見出すことができたのは、間違いなくコーチのサポートがあってこそであり、深い感謝の念を抱いている。
見えてきた自分の価値観
さて、プログラムの結果どうなったか。そう、過程も大切だが、ここで大事なのは結果である。
「自己理解プログラム」では、価値観・得意なこと・好きなことの3つが重なるところを「本当にやりたいこと」と位置づけ、一つずつ掘り下げていく。
価値観は、私の場合「回復>快適>安心>達成>本質の理解」の順で満たされるという結論になった。これは非常に納得のいくもので、回復~安心までの価値観を重視しており、それがそろってはじめて物事を進めることができるという実感もあった。逆にいえば、今までの数年間、上手く仕事が進まない理由も、回復・快適・安心が満たされていないことからで、実際その思い当たりはあった*5。
ストレングスファインダーが示した道
得意なことの発見にはストレングスファインダーを活用した。このテストは非常によく設計されており、全34資質の中から自分の強みを明確に示してくれる。実は2016年と2018年にテストを受けており、今回私はそれを活用した。そう、自己理解プログラムが高いと思う、またやってみたいと思う人はまずストレングスファインダーを受け、ある程度自分の理解を深めた方がいいと思う。特に高校生や大学生~20代には積極的にやってほしい。就活前の学生とか必須じゃないかと思うレベルである。
私の場合、上位資質として「個別化」「原点思考」「慎重さ」「成長促進」「親密性」などが挙がった。上位14資質までを見たとき、それぞれが確かに自分の強みとして生かされているという実感があった。さらに今回はそこからどういった成功パターンがあるかを分析していき、自分への自信にもつながった。そして少なくない数が今の会社で勤務する中で得た自信であることに気づいた。要するに、大変さとは別に、自信も得ていたということである。この事実は重要で、今後もしばらくは会社に残ることを選択することにした*6。
"好き"と"興味"の整理から見えたもの
さて、私が今回プログラムで私が最も苦労したのは「好きなこと」の整理である。
読者の中には「え、まち探訪家ってまちを巡ることが好きなんじゃないの?」と思う人がいるかもしれない。しかし、必ずしもそうではないから食うのに困って会社員になるし、活動もガツガツ進んでいたわけではないのだ。なので、苦労することはある意味当然でもあった。
そして、同時にプログラム内で重要な気づきもあった。「興味があること」と「好きなこと」は必ずしも一致しないということである。興味・好きな分野を全部挙げると50以上あり、生成AIの力を借りて整理する必要があった一方で、「本当に好きなのか」と問われると答えに窮することが多かった。ここでは本当にコーチのアシストがなければ整理ができなかったと思う。
風景を軸にした新たな出発
そして「好きなこと」の整理を通じて、大きな気づきが訪れた。私が本当に関心を持っているのは、まちや交通そのものというよりも、「そこにある風景」なのではないか。なぜその風景が存在しているのか、その背景にある物語に興味があるのではないか。
思えば風景に関する本も多く買っていたし、とりわけ2011年頃からは「重要文化的景観」に強い興味を示していた。そして地図やまちそのものを見るというより、どこかへ行ったとき、「そこにある風景はなぜ今ここに存在しているのか」に興味が湧いていたのである。例えば、地方ローカル線であれば「ローカル線で買い物にいく老人の存在」であるし、まちであれば「商店街とロードサイドの発展の対比」である。この気づきは、自分の興味の本質を理解する上で重要な示唆となった。
結果として、交通分野への興味は「風景を理解するための文脈」として再定義された。これは興味を完全に手放すわけではなく、より本質的な関心事である「風景」を理解するための要素として位置づけ直したのである。
最終的に、私の「好きなこと」として「風景」、そして、それ以外にいくつかの軸が見えてきた。特に「風景」については、好きなこととして変わらないだろうという自信を持つことができた。なので、風景をベースに、時には別のものも出しながら活動していくというのが今後の方向になる。
一見すると大きな方向転換には見えないかもしれない。しかし、これは納得に納得を重ねて混乱している優先順位や義務的なやることと義務的ではないやりたいことを分離し、方向を定めた結果なのである。自己理解プログラムでは、『やりたいことは天啓のようにはおりてこない』といわれる。それはまさにロジカルに積み重ねた結果なのである。だからこそ、今納得してこの場に執筆しているのである。
そして今後の活動の方向性を次のように定義した。「そこにある物事の理解が十分ではない人や物事に対して、理解(知識・議論)を通じて、より良い方向性を見出せる状況を作る。そのために、自分が好きなもの(風景・日本酒・日本ワイン・漫画)を中心に、本質や様々な視点、そのものが持つ良さを見せていく」。これは私の目指す方向性そのものである。
さらに上位として私のビジョンも設定した。
「世界の複雑さを受け入れ、自然と共に在ることを意識し、深い理解と建設的対話をベースに、それぞれが自らのリズムで歩む世界をつくる」
自分で考えてすごくいいビジョンだと思っている。20代後半からはずっとこう思い、生きてきたし、こうあってほしいと願ってきた。
こうした定義があれば、好きなことが変化しても、得意なことを新たに発見しても、価値観が変化しても進むべき方向はわかりやすい。修正していくだけではないかという展望も見えた。自己理解プログラムは、決して楽な道のりではなかった。しかし、確かにやる価値はあるものだと薦めることはできる。
これからは「風景」を軸に、新たな視点で物事を見つめ、そして伝えていく。それは、まち探訪家としての活動の終わりではなく、より本質的な関心に基づく新たな出発点だと思う。
つまり、自己理解プログラムという投資は、私にこの確かな方向性をもたらしたのだ。もうはじめてはいるが、2025年は自分の定めた道を一歩ずつ、今度こそ着実に歩んでいこうと思う。
みなさんも来年がより実りある1年でありますよう。
*1:これは会社の中の話なので割愛させていただきたい
*2:ちなみに、パートナーがいる状態で仕事をするのがベストだが、2019年始に別れて以来、異性の友人はいれど、パートナーづくりの足がかりは今のところない
*3:ちなみにプログラム完了率は90%台後半であり、かなり高いとは思ってはいた
*4:伴走者と感覚があわないとしんどい。その説明はあえてする必要はないだろう
*5:ちなみに、プログラムでは、一旦決めた価値観も後から変更可能という柔軟な アプローチを取っており、実際に私も一度変更を加えている。そもそも価値観は固定的なものではなく、状況や経験により変化していくものだと考えている
*6:一方で、2024年12月現在、メンタル的には調子を崩して休職を余儀なくされている。これについては自信を得られることとストレスを得ることは打ち消しあう関係にはならないという点でよい勉強にもなった
積丹半島の付け根にある港町「岩内」をめぐる
丘に抱かれた港町へ
この日は、余市で車を借りた。国道5号を南下すると、仁木町を過ぎ、厳しい稲穂峠を越える。倶知安側の激しい下りに驚きながら小沢駅近くから国道5号を離れて国道276号に入ると、急に視界が開け、所々にゆるやかな丘が並ぶ風景が広がった。日本海側の冬の厳しさを想像させる北海道らしい開けた地形だ。

車の流れに沿うようにしばらく走ると、急に中規模な商業施設がいくつか現れ、市街地らしくなってきた。そして丘を下ると岩内の市街地に入る。港町の雰囲気が少しずつ濃くなってくる。
静かに時が流れる中心市街地
岩内のまちのランドマークとして国鉄岩内線の旧岩内駅跡地にバスターミナルがあり、そこから伸びる道路と東西に走る国道276号の交点がどうやらこのまちの中心のように見える。一方で、交点に市街地としての「中心」感は薄く、商店街としては、閉店した店も含め、東西に長く広がる。建物に歴史感はない。北海道らしい積雪に対応した建物が建ち並び、道路も除雪を想定してかゆったりとした路側幅がある。

こうして書くとなんだか寂しい海沿いのまちのようだが、北海道の広大な平野や山を走ってきた身からすればかなり立派な市街地に映る。港周辺だけでなく、その南にある高台にまでしっかり人が居住しており、東西に長い。スーパーも数軒あるし、クルマ通りもそれなりだ。
岩内バスターミナル周辺は交流拠点となっており、この日は秋の休日ということもあって、多くの人が立ち寄り、休憩や海鮮丼の食事処を探していた。少し駐車場を探すのに苦労したくらいだ。岩内バスターミナルの中を少し覗くと、10人程度の人が札幌へのバスを待っていた。ここまでバスで来たのか、クルマで来たのかは果たして不明だが、どちらも考えられそうだ。それにしても、人口1万人*1のまちの昼間の高速バス、札幌についたら夕方にかかりそうな時間のバスに10人も待っているのは驚かされた。*2
岩内バスターミナルから港へクルマを進めると、それなりに大きくも穏やかな漁港があった。休日の昼なので、実に静かである。北海道の漁港らしく、テロ警戒の立て看板が立つ。日本語・英語だけではなく、中国語・ハングル・ロシア語など数カ国語で書かれているのも興味深い。

このまちの歴史は、多くの北海道の日本海側にあるまちと同様に、ニシンの恵みと共に始まった。江戸時代後期、凶作を逃れて和人たちが北上し、松前、江差、瀬棚と漁場を求めて進み、やがて岩内*3にたどり着いた。明治期に入ると、まちは大きく発展する。明治末期から大正年間にかけて多額の町債による港湾改修が行われ、現在のまちの骨格が形作られていった。
鉄道も早くから誘致に力を入れ、まず馬車鉄道が開設された。後に国鉄岩内線となり、一時は倶知安やニセコなどの内陸部の厳しい地形を避ける海ルートを拓く路線としても期待された。しかし、その役割を終え、国鉄末期に廃線となった。平成に入ってからは直江津との間にフェリーが就航した*4が、これも1990年から1999年までの短い期間で終わりを迎えている。
現在の街並みが形作られたきっかけは、実は大きな災害だった。1954年9月、洞爺丸台風がもたらした暴風により、市街地の8割が焼失する大火に見舞われた。同時期の大火であれば、秋田県大館や長野県飯田に匹敵する面積の被害を受け、北海道による復興計画が実施された。しかし、まちの規模が小さいためか、公園整備と道路拡幅が主な事業となり、今日見られる広い路側幅もその名残といえる。*5
まちを巡っているうちに昼飯時になり、中心市街地の寿司屋に入ってランチの寿司を頼んだ。特に白身の魚がうまい。ウニはあまり得意ではなかったのだが、ここで食べたウニはおいしく、保存や調理の技術がある寿司屋なのだろう。とても満足した。*6
眺望が語りかけるもの
昼飯のあとには南にある山へと車を走らせた。中心市街地を見下ろせる展望台があるという。山の中腹が昭和後半にリゾート開発されており、スキー場などがあるほか、そのときに展望台も作られたようだ。

展望台からは眼下に岩内の市街地、奥には積丹半島と泊原発が見える。日本海に突き出た積丹半島の雄大な姿は、この地方ならではの風景だ。美しい積丹半島に目が行く人もいるだろうし、泊原発の近さにビックリする人もいるだろう。現に自分も、まちからこれほど原発が間近に見えるとは思っていなかった。
原発に関連する話でいえば、岩内から西に2つ隣の寿都町と北に2つ隣の神恵内村ではいま、高レベル放射性廃棄物、通称「核のごみ」の最終処分場地選定の話が進んでいる。*7岩内の市街にも電源立地対策交付金で建てられた建築物があった。
ニュースの知識やちらりと見える風景からだけでも、ただ楽しむだけではなく、受け入れにくいものを受け入れるという話にも動いているこの地の厳しい現実を否が応でも考えざるをえない。
風景の美しさは時として人の生活に厳しい場所であることを示す。それでも今日まで地域である程度の中心性を持つ岩内のまち、これからも目立たなくてもいいが、地域の中心としてあってほしいと思うのだった。
展望台を後にしながら、秋の空気が少し冷たく感じられた。まもなく冬が訪れる。厳しい季節を幾度も越えてきた岩内の人々の暮らしに、あらためて思いを馳せた。
*1:人口は1970年代の2万5000人がピーク。また、明治末期には1万人台後半から2万人在住というデータもあり、明治末期より現在の方が人口は少ない
*2:乗車人員だけではなく、岩内はバスの本数もほぼ毎時1本と多い
北海道中央バス「高速いわない号」時刻表
*3:岩内の語源ははっきりしないが、硫黄の川、軽石が多い川という説があり、下記サイトで詳しく検証されている。
岩内の由来と歴史 ~硫黄の川はどこにあるのか~ | 北海道と小樽の地名
*5:【特集】岩内大火復興70周年(後編)絶望の焦土からの再起 | マイ広報紙
*6:岩内港自体はいか・さけが多く採れる
*7:“核のごみ”最終処分地選定に向け 北海道寿都町と神恵内村の「文献調査」報告書 町と村と道知事に提出 | NHK | 「核のごみ」処分場選定
まちづくり、コミュニティ、公共性 ― 手島サトコ「酸欠都市の泳ぎ方 #00」から考える
私は「まちづくり」という営みに関して少し距離を置いて見ている。その理由はシンプルで、新しい場に入っていくことが苦手だからだ。会社ですら自己紹介でたどたどしくなってしまう。何よりマイナー趣味の持ち主で、割と孤独を感じて生きているので、受け入れてもらえる気がしないというのもある。
一方で、私は「まちづくり」をしたい人の気持ちやそれがまちにいい影響があるのかどうかを観察はしている。いい例があるなら、紹介はしたいし、広がっていく中で自分がダイブできる場所ができるかもしれないと思うからだ。結局のところ、私は「コミュニティ」を求めているのかもしれないと寂しい気持ちになることもある。
なぜこんなことを書いているのか。それは、文学フリマで、手島サトコ(@satoko_teshi)さんの「酸欠都市の泳ぎ方 #00 『うまくやれない』人のためのまちづくり」を読んで刺激をうけたからだ。内容としては筆者が「まちづくり」に関わりながらも、感じる違和感について具体例を交えながら言語化しているもので、非常に興味深く読んだ。

特に印象的だったのは、パワハラ・精神疾患の話や「成功者バイアス」が強いという話だ。このあたりは個人的な感覚と非常に近い。かねてから、「まちづくり」や「交通」を見てきた人間として、プレイヤーにインクルーシブではない人が多いと感じている。
本来、公共性が高いこうした分野はインクルーシブであるべきだと思う。もちろん、近年の不動産開発で使われる「まちづくり」においては、不動産価値の向上と維持を目的としているため、ある程度エクスクルーシブにならざるをえないと考えているが。
しかしながら、私が違和を覚えるのは、公共性を掲げ、「インクルーシブ」かつ「ボトムアップ」でまちづくりをしようとみせながら、まちづくりの主体のためのまちづくりになっている例が散見されることだ。それは不動産価値の向上のために行うまちづくりよりもタチが悪い。参加しなければまちづくりの対象から排除されてしまう可能性が高く、参加したとてイニシアチブを握るか勝ち馬に乗らなければ意見を主張しづらい。
よくワークショップで住民の意見を聞きました、というのを見て猛烈な違和感を覚えるのだが、ワークショップに参加できない人の意見はどこで聞くのだろうか。ワークショップでの取りこぼしはどこで拾うのか。いつも問いかけたくなる。そもそも、皆が「まちづくり」をしたいのか。そこからであろう。別に必要最低限のインフラ補修でいいという人がいるかもしれないし、変にヨソモノが来て眉をひそめるかもしれない。そういうことは無視して「コミュニティができてうれしいよね!」みたいな「錦の御旗」で「ボトムアップまちづくり」が進められがちな印象がある。それならば「まちづくり」でなくて別にお店でも開いてコミュニティを作ればいいのに、とすら思うこともある。
もちろん強烈な力でないとドラスティックな変革は難しいというのはわかる。中々人の意識を変えるのは大変だし、そういうことに喜びを見いだして動く人を尊敬していないわけではない。しかし、なぜだろう。どことなく私には「コミュニティ」とセットになった「まちづくり」には気持ち悪さを覚えるのだ。「コミュニティ」を見ていると、血縁主義社会や村社会、家父長制的社会を見ているような気持ちになるというのもあるだろう。つまり、インクルーシブではないということだ。公共性がないということだ。
こう思うようになったのには様々な過去の苦い思い出があるのだけど、先の書籍で記述されている「成功者がワナビーを呼びコミュニティを形成し、本とイベントでループしている感じ」に対する違和感も大きく寄与しているだろう。つい、まちづくりの「コミュニティ」って、成功者や言葉の強い人のためのものですよね、私はたぶんここからは排除されるのだろうな、とシニカルになってしまうのだ。
むしろ私はボトムアップ的なまちづくりの営みよりも、いっそウォーターフォールのように組織が「色」をつけ、利益を得るためにまちに介入しするほうが清々しいと感じる。反対する行為も理屈がつけやすい。結果的にその方が意見が言いやすく、よほど「公共的」になるのではないかとすら思う。
そもそも、(少なくとも)日本において「公共性」なんてものは、バッジみたいなもので、中身はあまり重視されていないように思う。封建的な文化が染みついてしまった社会なのだとも思っている。そして、ことある毎に「コミュニティ」でそういう封建的なものや成功者バイアスのようなものを見ては「やはり公共なんてないなぁ」と思わせられる。
しかし、それでもちゃんとした「まちづくり」があったらいいなとは思う。そして、それは意外と排除する対象を明確にした不動産開発の方が公共的になっている気がする。「まちづくり」や「コミュニティ」への違和感をうまく言葉にできていないことはわかるが、少なくとも、手島さんの本を読んで私は「違和感を覚えているのは自分だけではないのだ」と非常に勇気づけられた。そして、自分は想像以上に「公共」という言葉や運用について重視しているのだな、と改めて思わされると共に、もしかすると「公共」を求めて「まちがどうしてこうなった」のかを書き残し続けているのかもしれない。そう思った。
「磐梯東都バス」廃止直前の「中ノ沢線」で温泉と廃線跡を訪ねる
東京に本社を置き、首都圏を主な営業エリアとする「東都観光バス」。初めて利用した時、名前から名探偵コナンの映画『時計仕掛けの摩天楼』に登場する「東都環状線」を連想してしまったのを今でも思い出す。
以前は池袋に本社を構えており、数ヶ月だけ私の職場がその近くにあったことがある。1970~80年代築のビジネスホテルを思わせる外装に、ずいぶん立派な社屋だと感心したものだ。
そんな東都観光バスは、昨年まで福島県に路線バスを運行する子会社を持っていた。軽く調べたところ、創業者の郷里が福島県であるようで、その縁で1980年代後半からホテルやゴルフ場といったリゾート事業も手がけていたようだ。そして2003年、喜多方から裏磐梯を結ぶ路線バスの運行会社「磐梯東都バス」を設立した。その後、会津バスの営業エリアを引き受けるような形で事業エリアを拡大した。
しかし、少子高齢化の流れと2020年からのコロナ禍の影響で、結局のところ事業継続は困難と判断したようだ。猪苗代町から委託を受けて運行していた4路線も含め、2023年9月末をもって全路線が廃止されることとなった。
この「磐梯東都バス」が運行を終了する直前に、私はこのバスに乗る機会に恵まれた。
いくつかある路線のうち、乗車をしようと考えたのは中ノ沢温泉に向かう中ノ沢線だ。猪苗代駅から猪苗代市街地を通り、国道115号線に沿って山奥へと進む路線で、終点近くにある中ノ沢温泉に浸かりたいという気持ちもあった。
この日、郡山での仕事を終えて乗車した磐越西線の2両編成は思わぬ混雑ぶりを見せていた。どうやら青春18きっぷのシーズンだったことと、郡山近郊の利用客も多いらしい。途中駅でなんとか4人がけのボックスシートに身体を滑り込ませ、猪苗代駅までは約40分。スキーをする身としてはウインタースポーツの印象が強い土地だ。駅前からも雪はないものの、猪苗代スキー場が見える。

駅前のロータリーの端っこに、東都観光カラーのバスが停車していた。トップドアのいすゞ・ガーラミオで、送迎バスのような雰囲気がある。私の他に乗り込んだのは2名ほどだったろうか。磐越西線の混雑ぶりとはなんとも対照的だった。

バスははじめ猪苗代市街地の中を走る。市街地には「バスセンター」というバス停があったが、周辺には商店街の駐車場がある以外、それらしき施設は見当たらなかった。会津バスの時代もバスセンターは駅前にあったそうだから、なんとも謎めいたバス停だ。
市街地を抜けると国道115号に入り、長瀬川に沿って北上する。しばらく走ると急に国道からそれて、今度は集落の中を通る1.5車線道路を走る。再び国道に戻り、裏磐梯方面へのアクセス路である国道459号と交差する。このあたりからはバスは廃線となった「沼尻軽便鉄道」の跡に沿って走っていくルートとなる。
「沼尻軽便鉄道」は「軽便」の名の通り、ナローゲージ(軌間762mm)の鉄道路線で、硫黄鉱山から鉱石を運ぶ貨物輸送主体の鉄道だった。しかし天然硫黄の需要減に伴い、1968年に鉱山は閉山。同年、鉄道線も休止となり、翌年には廃止された。
バスは少しずつきつくなる上り坂を登っていく。バスでもはっきりと感じられる上りなのだから、軽便鉄道時代はかなりの急勾配だったのだろう。実際、国道115号が東へと向きを変えるあたりからの鉄道線は30‰から40‰の急勾配だったという。鉱石を運ぶ下りにせよ、空荷とはいえ貨車を牽引していく上りにせよ、相当厳しい勾配だったことは想像に難くない。
一方でバスは、時折集落への旧道を走りながらもすいすいと登っていく。私はこういう狭隘な道路に入り込んでいくタイプのバス路線が好きだ。集落の狭隘な道路に入る度に人々の営みと寄り添っている感覚を覚える。

バスが国道から県道24号に入ると、やがて中ノ沢温泉の温泉街が見えてくる。温泉街を抜けきる手前で右折し、突如幅一杯ほどの狭い道に入る。区間は短いが、狭隘路線好きとしては最もわくわくするポイントである。
森の中を数分走ると集落に差しかかる。ここが達沢、このバスの終点だ。山あいの静かな集落で、バスは乗客を降ろすと公民館らしき場所に停車し、折り返し時間までしばしの小休止をとっていた。


折り返しのバスでは一度中ノ沢温泉を過ぎ、「沼尻」バス停で下車する。国道115号と県道24号の分岐に近く、かつては「沼尻軽便鉄道」の終点、沼尻駅があった場所だ。硫黄鉱山はさらに山奥にあり、採掘された鉱石はここまで索道で運ばれ、積み替えられて鉄道で山を下っていったのだという。駅舎は今も残されている。どうやら商店として使われていたようで、「地域振興券」のステッカーが貼ってあった。まだ20世紀、私が小学生だった頃のものを見つけ、一瞬懐かしさに浸った。

ちなみに今回ここまで「沼尻軽便鉄道」という名前を使用してきたが、営業中にこの名称が正式なものとして使われたことはない。あくまで現存する案内板ベースの名称なのだ。この鉄道は会社名が何度も変わっている。末期は観光開発を考えていたのか「日本硫黄観光鉄道」となり、最終的には「磐梯急行電鉄」と名を変えて廃線となった。
実を言うと、この記事を書くにあたっては「沼尻軽便鉄道」という路線名で表記するまでに迷いがあった。廃線時ベースであれば「磐梯急行電鉄」となるが、少なくとも非電化のまま廃線になった鉄道を「電鉄」と呼ぶのはどうかと思う。「急行」に関しても、ナローゲージゆえに大変怪しい。そうなると、「沼尻鉄道」が次点で挙がるが、なんとなくしっくりこない。結局、案内板ベースにした。
ちなみに「磐梯急行電鉄」について少し調べると、和歌山県にある紀州鉄道との関係や、さまざまな怪しげな噂が浮上してくる。のどかな風景の中を走り、歌謡曲「高原列車は行く」の舞台にもなった沿線の様子からは想像もつかない、会社という「ハコ」としての背景があるようだ。

六角形が2段重ねになっている県道の標識は福島県特有のものだ
さて、沼尻駅跡から10分ほど上り坂を歩けば中ノ沢温泉に着く。昼下がりの温泉街は人影もまばらだ。いくつかある温泉宿のうちの1つで日帰り利用を申し出て、温泉に浸かる。鉱山に近い沼尻温泉から湯治客のために引湯して作られた温泉地だそうで、泉質はもちろん硫黄泉。酸性度も非常に高い。ちなみに源泉からは毎分1万リットル以上も湧出しているという。そう長い時間浸かっていたわけではないが、十分温まることができた。
温泉街を歩くと、「中ノ沢こけし」の幟が目につく。温泉地とこけしがセットになっていると、東北に来たのだなという実感を覚える。中ノ沢こけしは、目と鼻の描き方が非常に特徴的だ。宮城県のこけしでみられる女性的な印象とは異なり、男性的な印象を受ける。「たこ坊主」という通称でも呼ばれていたそうだ。系統としては土湯系から分かれ、宮城県の遠刈田からきた木地師の影響を受けた「中ノ沢系」として近年認定されたのだとか。
温泉街を歩いてほどよく涼んだところで、帰りのバスがやってきた。

帰りのバス車両は三菱ふそう・エアロミディ。心地よさに半分うとうとしながら乗っていたが、途中で1人か2人乗ってきただけだった。確かに撤退もやむを得ないかもしれないと思わされる。
磐梯東都バス撤退に関する事情は、地域経済誌「政経東北」に詳しく取材した記事がある。どうやら撤退前の磐梯東都バスは猪苗代駅から裏磐梯エリアを結ぶバスを除けば、猪苗代町から委託費用を補助されて運行していたらしい。実質的なコミュニティバスというわけだ。そして当初は、排ガス規制で東京で運行できなくなったバス車両の利用も考えていたという。
東都観光バスは観光バス会社の車両なので、路線バスへの転用はバリアフリーや運行経路の道路幅などの問題から一筋縄ではいかないと思うが、一体どういう計画だったのだろうか。当事者ではない私には知るよしもない。現在運行している車両は首都圏の路線バス事業者から転籍してきたものも多く、当初の構想通りにはいかなかったのかもしれないとは思う。
ちなみに2023年10月からは、磐梯東都バスの路線網は会津バスに運行がそのまま引き継がれていた。つまりこのエリアのバス網では、会津バス→磐梯東都バス→会津バスという変遷をたどったわけだ。
バスのカラーリングは一部会津バスのものに塗り替えられているようだが、2024年春現在、磐梯東都バスのカラーに会津バスと書かれた車両も運行中だそうだ。
たまたま乗る機会に恵まれた磐梯東都バス中ノ沢線。沿線や終点の風景や刻まれた歴史に触れ、思いがけず濃密な乗車体験となった。そして、各地の路線バスに揺られるのは、やはりよいものだと改めて感じたのだった。

ニシンや石炭の交易で栄えた港湾都市「留萌」市街地をめぐる
北海道の北西部に位置する留萌市は、留萌振興局の中心都市であるにもかかわらず、人口は2万人弱と少ない。アクセス面では、高規格幹線道路「深川・留萌自動車道」が整備され、旭川市からは1時間強、深川市からは1時間もかからずに到着できる。一方、鉄道は2023年に留萌本線の石狩沼田~留萌駅間が廃止されたことにより、現在は通らなくなっている。
深川留萌道を走ると、石狩沼田のまちを右に見ながら標高を上げ、美葉牛峠を越えていく。峠の標高はそれほど高くないため、連続するカーブなどはない。むしろ、留萌側は谷間を走るため、トンネルが多いのが特徴だ。突然谷筋から開けた景色が広がると思ったら、いつの間にかまちなかに出ているという印象を受ける。
市街地は留萌川の左岸に開けている。留萌川は、まちの由来である「ルルモッペ」(汐が奥深く入る川)に由来しており、市街地では大きく蛇行して流れていた。大正時代に現在の水路となり、同時期に留萌港の築港工事も行われた。港の建設には20年もの歳月を要し、築港後は石炭の輸出港として栄えた。

明治時代の留萌は、現在の港の位置や大町・港町・本町が栄えていたようだ。本町から黄金岬方面に向かうと、道が上り坂になり、標高20m弱まで上がる。大町あたりは、港を見下ろす高台に位置しているため、ここが古くから栄えた場所であることは非常に納得がいく。古い市街地ゆえか、駅周辺よりも住宅などの密度が高い印象を受けた。黄金岬から眺める留萌の風景は、北海道らしい雄大な地形が広がり、非常に美しい。

現在、施設や商店が建ち並ぶのは本町、錦町、開運町で、錦町3丁目と4丁目の境にあるセイコーマートのある交差点でL字型に折れ曲がっている。人通りが皆無とは言えないが、まばらで、開いている商店も活気に欠ける。どちらかというと、業務地区という印象が強い。


一方で、市街地を走るバスは本数が少ないにもかかわらず、10人ほどが乗車していた。これは、北海道各地でもよく見られる光景だ。スーパーや病院へのアクセスが確保されているからだろうか。
開運町を貫く道の先には栄町があり、以前は留萌本線の留萌駅が置かれていた。旧留萌駅は、廃線から半年以上が経過しているとはいえ、かなり寂れた雰囲気を漂わせている。もともと利用者が少なかったことも影響しているのだろう。駅前にも、かつての商業地区の面影が残っている。

現在、商業地区としての集積が見られるのは、国道231号線沿いに立ち並ぶロードサイド店舗だ。特に、コープさっぽろが立地する留萌振興局周辺と、市街地から陸上自衛隊留萌駐屯地を挟んで東側の南町周辺に、店舗の集積が見られる。

歓楽街は、先に紹介したL字型の商業エリアの裏側、主に開運町や錦町に位置するが、衰退の様子が見て取れる。かつては「有楽トンネル」というアーケードがマニアの間では知られていたが、現在はほとんどがアーケード部分ではなくなっており、裏側は完全に取り壊されてホテルの駐車場になっていた。留萌市街地全体を見渡しても、L字の通り以外は全体的に店舗が低密度な印象を受けた。

2023年現在、中にはスナックの店舗が1軒あるのみ。旧アーケード部は駐車場になっていた

こうして留萌市街を見ていくと、良港を持ち、そこから港湾都市として発展してきた歴史が見えてきた。また、市街地の位置も築港以降は大きく動いておらず、目抜き通りのラインもはっきりしている。一方で、目抜き通りに留萌地域で4店舗を営む「中央スーパー」を除けば、目立った商業施設が少ないことが気がかりだ。
中心市街の居住人口を増やすことで、この課題は少し解決する可能性はある。しかし、そもそも人口減少下の状況で、新規に市街地に集合住宅を建設しても、需要があるかは不明瞭だ。それよりも、大きいチェーンストアの営業を維持し、乗合交通でのアクセスを確保する方が住民満足度としては高いのかもしれない。

厳しい見立てもしてきたが、周辺の自治体と比較すれば、留萌市は圧倒的に「町場」としての要素を備えている。そこに大きな港湾を中心とし、留萌地域の中心都市として「外」との玄関口であることを感じたのだった。
追記:留萌と言えば、大手書店の「三省堂書店」が出店している。出店エピソードがかなり面白いので、ぜひ以下の記事も読んでみてほしい。
コミティア147で出会った、印象的な写真集たち
2月末、一次創作が中心の同人誌即売会「コミティア147」に足を運んだ。昨年末のコミックマーケットでは写真集「City Perspective」を頒布したこともあり、今回は主に写真集を購入した。

・「BARCELONA'23」 サークル:寺見屋ラボ
バルセロナの街並みを収めた写真集。いつかは行きたい街の一つであるバルセロナの写真集を見つけ、思わず手に取って立ち読み。写真の美しさと印刷の質の高さに惹かれ、購入を決めた。
特に、人物にフォーカスを当て、締まった構図の写真が目を引いた。私自身、全体感を意識した写真を撮る傾向にあるが、改めて構図の大切さを学ぶ良い機会となった。
観光名所や古い街並みの雰囲気が見事に切り取られており、何気ない日常の一コマからも、その土地の空気感が伝わってくる。現地に赴き、生でその雰囲気を味わいたいという思いがますます強くなった。
・「澳門アンダーグラウンド」 著者:星野藍
星野さんは主に共産圏の建物や廃墟を撮影されているカメラマン。未だしっかりとまわることができていないマカオの半島側の写真集ということで興味を惹かれ、購入した。
「平民村」や無秩序に立ち並ぶマンションの佇まいは、香港のカオスな風景とはまた異なる独特の雰囲気を醸し出している。香港と比べ、マカオの方が日本人にはどことなくのどかで親しみやすいカオスだと感じた。
また、香港の郊外や離島で見られるような、少し時代を遡ったような情景も写真から垣間見ることができた。
・「JUNCTIONS -HANSHIN EXPRESSWAY-」 サークル:夜光部
私は高速道路が好きだ。都市間で見られる地形に沿ってカーブを描く道、地形を切り開いた掘割、谷を大きく超える橋から見える絶景。都市高速で見られるビルの間をすり抜けていく道、川の上を通るが故のカーブや二層構造。ハンドルを握って走るのもよし、構造を外から眺めるのもよし。中でも特に見栄えがするのはジャンクションだろう。スムーズな車の通過を可能にするカーブや立体交差は、見上げても走り抜けても美しい。
この本で特集されている阪神高速は、碁盤目状の道路構造ゆえに美しい構造のジャンクションが多い。ナトリウムランプのオレンジ色が道路を幻想的に彩り、特にヘリから空撮された夜のジャンクションの写真は、車の流れと相まって息を呑む美しさだ。
個人的には東大阪JCT、湊町JCT、中之島JCT、垂水JCTが非常に印象的だった。
・「Nostalgic Nightview」 著者:ますとも
夜景写真の美しさに一目惚れして購入した一冊。重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の夜をテーマにした写真集だ。
被写体としては珍しくないが、夜景としてここまで映えるとは思わなかった。住宅地であるこうした地域は概して暗いはずなので、撮影の難しさは想像に難くない。その撮影の苦労をしのばせる素晴らしい写真集だ。
中では特に美山と洞川温泉の写真が心に残った。どちらも以前からずっと気になっていた場所で、より一層行ってみたいという思いが募った。
今回のコミティアでは、写真集を作った経験から、写真集を中心に購入した。手に入れた写真集からは、撮影テクニックやテーマ選びなど、多くのことを学ぶことができた。今後、様々な表現方法を模索していく中で、これらの写真集は大いに参考になるだろうと思う。こうした刺激的な写真集との出会いに感謝したい。













